昨年11月に祖母を、12月に舅を亡くしました。
今思うのは、失うことは当然悲しいのだけれど、「なくす」ということはとても大切だということ。
私は物心ついた時から、夏休みとお正月休みを祖母と過ごしていました。45歳になるまでずっと。その経験で得たのは、「人のためにやっているようで、すべて自分のためになる」、「ご先祖様に感謝しながら真っ直ぐに生きていると、迷わずにいられる」ことなど。それらを身に沁みるほど理解していても、祖母の存在にずっと甘えて生きてきました。彼女が99歳になるまで。年長者の存在は、どこまでも温かく安心できるものです。結婚して家庭をもっても、夏に日本に帰ってくるのは祖母に会いたいからで、どんな失敗も、不安なことも、祖母の言葉一つで吹き飛ばされて心は晴れ渡るのでした。
そんな祖母が去年、生涯の幕を閉じました。その最後はとても穏やかで、静かに息をすること25日間の後、私と母に見送られながら息をひきとりました。あの祖母が死ぬなんて、信じられないような、それでももう何年も前からその死を受け入れていて当たり前のことのような、でも心は現実世界にいないような感じがしていました。
そしてイタリアに戻ったその一カ月後、舅が亡くなりました。結婚してからというもの、人生最初で最後のわかり合えない人間だ、とまで思っていた人でした。この人が死んだらどんな気持ちになるのだろうと思っていたけれど、認知が進んでから、そしてさらに大腿骨を折って歩けなくなってからの最後の数年は、全てが許せ、愛情をもって手を差し伸べることができていました。実際、死んでしまったときには、本当の家族がいなくなったのと同じ気持ちになったので、心のどこかで安心したような、でももう彼がいなくなってしまっては、何もできない、その虚しさだけが残って、再び呆然としていました。
舅を巡って、離れ離れだった夫婦の溝は、祖母と舅の死が重なったことで、気持ちをわかり合うことができたし、それが最後の祖母からのメッセージであったようにも思えました。そして、二人を失った今からこそ、自由に、確実に自分たちの人生を歩んでいくことができるのだ!と思うのです。
誰かに守られていては、本当に自由になることはできないし、真の強さを持つことができないように思います。守りがなくなって初めて、見える世界があり、その世界を生きる覚悟と強さを持てるのではないのでしょうか。
死、病気、事故、様々な心身の障害、報われない愛情、孤独、生きていればありとあらゆる苦しみがあるけれど、それでもその中を生きる自由があることは幸せです。戦争がある国や、独裁国家に生まれれば、それは不幸だからです。自由に生きられるのは、それまで守ってくれた人たちがいたからだし、その人たちを失ってしまったから。それに気が付けば、失うことは悲しいことのみではない。今までに気が付かなかったことを知ることのできる大きなチャンスでもある。
失うことを恐れずに、強く、強く生きていきたい。そうして、自分の周りの人たちを優しく守れるのなら、生きていてよかったと思えます。

コメントを残す